呑龍様(大光院のいわれ)

大光院と呑龍上人

「子育て呑龍」として広く世に知られる大光院は、「呑龍さま」と呼ばれて人々に親しまれています。その正式の名称は、「義重山新田寺大光院(ギジュウザン ニッタジ  ダイコウイン )」であり、徳川氏の始祖と言われる新田義重をまつるお寺です。

慶長16年(1611)3月、前将軍の徳川家康は徳川氏一族の繁栄と天下泰平、さらに始祖(シソ)義重の追善供養(ツイゼンクヨウ)の為、先祖の地に菩提寺を建立する計画を立てました。

そこで家康は、この問題をかねてから尊敬している芝増上寺の観智国師(カンチコクシ)に相談しました。その結果、菩提寺建立の適地として太田金山南麓(オオタ カナヤマ ナンロク)の現在地が選ばれました。

翌17年の春、大光院の工事が始まり、およそ1年かかって本堂(ホンドウ)・方丈(ホウジョウ)・庫裏(クリ)などが竣工しました。

それと同時に開山の選任が検討され、観智国師の門弟で四哲(シテツ)の一人といわれる呑龍上人(ドンリュウショウニン)が就任することになりました。

呑龍は、弘治(コウジ)2年(1556)4月、武蔵野国埼玉郡一(ムサシノクニ サキタマグン イチ)の割村(ワリムラ)(埼玉県春日部市)に生まれ、竜寿丸と名付けられました。竜寿丸は、2,3歳の頃から念仏を聞くとニコニコとうれしそうな顔をし、また7,8歳を過ぎた頃には友達を集めて泥で仏像を作り、念仏を唱えたそうです。13歳の春、竜寿丸は僧侶になる決心をし、修行の道に入りました。そして翌年の8月、得度して呑竜と称するようになりました。

大光院に入山した呑竜上人は、看経・講義・説法などに力をいれ、また因果応報を熱心に説きました。そのため上人の学徳を慕う僧侶1000余人が大光院に集まり、また周辺村々の農民も上人の教えに服したので、寺運は大いに栄えました。

しかし、戦国の余じんのくすぶる乱世において人心は乱れ、そのうえに天災が続いたので人々の生活は困難をきわめました。そのために捨て子や間引き、子殺しなどの非道な行為が平然と行われました。この事態を憂えた上人は、精力的に村々を回って人々を訓戒しましたが、効果はなかなか上がりませんでした。そのため上人は、捨て子や貧しい人々の子供を7歳になるまで上人の弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育しました。

元和(ゲンナ)9年(1623)夏、上人の衰弱が目立つようになりました。8月3日、弟子や関係者を枕辺に集めた上人は、「来る9日正午に往生をとげる。その時には雷鳴が鳴り渡るであろう」と語りました。そして9日の正午、仏前に合掌しながら入寂(ニュウジャク)しました。 



女将より一言

幼いころより信心と慈愛に満ちた呑龍さま

捨てられた子供や貧民の子たちを我が子のごとく育てられ守られました。

今でも、難病や問題を抱えたお子様の救いの御祈願に参拝されたお客様が

山田屋にもお立ち寄りになります。

どこの病院へ行っても回復が出来なく、呑龍さまに頼り劇的に好転に向かった方。

荒れたお子様の心が水のごとく落ち着いた方。

目に見えないものはあるのだと そう感じます。